2002年BBC放映の名作ドキュメンタリー「自我の世紀」第3部 |
フロイトの無意識理論がいかに大衆操作に利用されたかを辿るドキュメンタリー
今回第3部は米60年代の「自我の解放」「自分探し」ブームが
企業社会や政界にとりこまれていく過程を追います シリーズ白眉はこの回と思われる
これだけ見ても最高に面白い 御用のない方60分つくって上の動画を是非ご覧あれ
以下は解説を兼ねた訳者の自分語り
*友達と縁を切ったことがある
「もう来ないで欲しい」と部屋から追い出したことがある
20年も前の話だ
わたしたちはアマチュアのロックバンドをやっていて
河原や公民館で週に何度か練習をする仲だった
以前は車で夜の首都高をぐるぐる回ったり
闇に紛れプールに忍んで泳いだり
もっと前は学校帰り誰かの家に集まって
ファミコンで遊んだりする4人組だった
4人で付き合った期間は5年くらいだろうか
5年のあいだに2人が童貞を捨て、2人が職を得、2人が車を買った
1人暮らしをはじめたのは俺が最初だった
車やゲームに特に興味を持てなかった自分はしかし、
作詞作曲には夢中になった
今こうしてインターネットに書き込んでるのと変わらない
「何もかもうんざり」「あんな女殺してやる」とかいう唄を闇雲に叫び
己の憂さを表せる、その遊びにシビれ取り憑かれた
病高じてかれら3人ともう1人、当時付き合っていた女に
わたしは声をかけ
90年代はじめのバンドブームが終わりかけていた頃に
ロックバンドを結成したというわけだ
「ドラムなんてやったことないよ」大丈夫、なんとかなるよ
「100万ボルト」という名を付けた 巧くなったらライブをしよう
俺達は有名になるだろう
男4人は低偏差値の高校出身で、進学した者はいない
軽音楽部なんてなものと無縁なため、
他の素人バンドをまるで知らなかった
はじめてのライブ
舞台で俺のギターの調律がずれて20分ほど立ち往生し、
年上の対バンに哂われた 「チューニングも出来ねえのかよ」
今なら笑い話だが、18の俺は深刻に落ち込んだ
熱の冷めた練習に集まるのは自分と(人のいい)彼女だけ、という日々
彼らはバンドがやりたいんじゃなく、
ただ寂しいから何となく集まっている
スノーボードでもツーリングでも下町食べあるきでも
楽しいイベントなら何でもかまわないのではないか?
最近聴いたCDや本や映画を夢中になって説く俺に、
彼らの興味は仲間内の噂話ばかりに思えた
何故こんな狭い場所で満足できるんだろう?
押し付けがましい己に気づかぬまま
手前勝手な依存心に不満は募るばかり
「こーんなことも知らないの」と女にあたり
「つまんねぇ」「馬鹿ばっかり」と独りごちる
そんな折、彼ら4人が久しぶりに訪ねてきた
「バンドはもう楽しくない それだけなんだ」
「でも、お前とは友達でいたい」
きみたち陰でお互い悪口を言い合ってるじゃないか
何でわざわざ見下してる奴と付き合うんだ?云々
別れ話めいたやりとりのうちに一人がこう言った
「でも、お前はお前だろ」「俺は俺だし」 |
????そうか?本当に「俺は俺」なんだろうか?
俺は俺じゃないんじゃないか?
少なくとも誰かに「自分は自分」と宣言できるような、
宣言せざるを得ないような何かが、俺にあるだろうか?
何もない
*高校中退自称物知り
理屈は一人前だが歌は下手 ギターの調律も満足にできない
世間が怖くてバイトが続かず親の仕送りを当てにしていた俺は
そろそろ19歳になろうとしていた
「サブカル青年」というライフスタイル勃興寸前にウヨウヨいた
典型的なバブル期「個性の時代」の若者だ
自分で自分が嫌でしょうがなかった俺は、
彼らが嫌でしょうがなくなった 馬鹿な自分を見ているように思えた
何も出来ないのに一人前の顔をして
本心では見下している他人の顔色ばかり伺って
尊敬されたくて、愛されたくて、目立ちたくてたまんないくせに
仲間からの逸脱を極度に恐れている
だがその上で
「自分は自分」?世間知らずのガキが何言ってやがる阿呆、
とはやはり思わなかったね 嗚呼バブルの時代
ボクも確固たる「自分」てのが欲しかったのです 喉から手が出るほど欲しかった
ひとりぼっちでも平気な強い「個」が欲しかった
*というわけで彼らと縁を切った後、俺の自分探しが始まる
つっても貧乏だし本を読むだけだ
まず頭が良くなりたいとヒッピーの宗教本を読み漁った
ジェリー・ガルシア「自分の生き方をさがしている人のために」
ラジニーシ、グルジェフ、カスタネダ、アラン・ワッツ、ニーチェ、鈴木大拙
コリン・ウィルソン、岸田秀、橋本治に辿り着いたあたりで大学進学を決めた
上の映像「自我の世紀3」に出てくる
ジェリー・ルービン「Do It!」も ライヒ「きけ小人物よ!」も
当時は好きで読んでいた
だからこの「個性の時代」の愚を描いたドキュメンタリーには耳が痛い
自分のことを言われているようだから
*大学を出てのち バンドやってるんです、と職場で言った折、
先輩から忠告を受けた
「ライブも機材も金かかるでしょー
成功できるのは一握り でもバンド、流行ってる
やってる奴たくさんいるよね
ヒサミチくん今のうちに宗旨替えして
楽器屋やスタジオ、プロモーターやったらどうよ?」
|
この映像「自我の世紀」第3部が伝えるのは、基本的にはこういう構図だ
だが、砂金探しの欲ぼけアメリカ人に比べ
100年後の我々「自分探し」世代が更にずっと幼稚に見えるのは
扱う商品「万能感」ゆえだろう この映像の「自我」とはこれを飾った物言いに過ぎない
何しろこの商品「自我」の魅力をアピールするのに根拠はいらない
ただ自分を信じればいい あなたに眠っている個性を信じればいい
信じれば夢は叶うのだ 無限にひろがる未来の可能性を信じればいい
こうしてコンサルタントやセミナー業者、自己啓発本の煽る万能感に頭をヤられ
さんざ幼児退行を起こした末に夢から醒めて
騙された!金返せ!ト文句をつける者がいるだろうか
「自己確立」はいまや懐かし「自己責任」と表裏一体なのだからして
*ところで
このドキュメンタリー「自我の世紀」シリーズ全般にわたって
でもそれの、大衆操作の何が悪いの?て疑問も、ある読者にはあると思う
ゴールドラッシュの喩えで言おう
荒地にインフラ敷いて雇用を産み出し豊かな社会が作れるならば
火種が幻想だろうと何だろうとかまわないではないか?
繁栄を招く原動力はいつだって若く向こう見ずな欲望だ
売り手と買い手、詐欺師とカモ、両者揃って資本主義の基本じゃないか?
しかし待て
採れた砂金を町に持ち帰れば女が買えた酒が飲めた人を雇えた更なる投資に回すこともできた
翻って 自我の万能感は何になる?
「自分は自分」の念仏じみた流行思想は、
けっきょく我々をバラバラに分断しただけではないか
神や伝統の軛(たとえば純潔修道院)から解放され、
出自のもたらす視野狭窄(たとえば過激な反差別闘争)から自由になって
次は家族制度の破壊に向かうだろうこの「自我の世紀」のニヒリズムを支えるのは、宿命なき時代の不信感だ
「自分を信じて」「夢を信じて」「その気持を信じて」J-POPが繰り返すのは
移ろいやすい己の心の外側に 信じられるものがもはや何もないからだろう
いや信頼どころか考えてみりゃ
旧社会から「自由に」「解放された」我々にはもう、愛も憎しみもいらない
だって「自分らしく生きる」ためには究極のところ、
己を制限し影響を及ぼしてくるカンケーねー他人などタダ煩いだけじゃないですか
ひとりひとりが自己創造のアーティスト、相互プロパガンダの御時世に望まれる他者は
ファン、信者、取り巻きパトロン「操作の対象」のみでありましょう
そんなことないって?オヤオヤ読者よ
そりゃーアンタの見方でしょ アンタはアンタ、俺は俺でしょ
*ひとりぼっちでも平気な強い「個」になりたかった私は、
こうして「個」の寂しさ、情けなさに思い至る
かけがえのない、特別な、たった一つのもの、最後には信じるしかないもの、
「自分」という楽園に辿り着いた、または檻に立て篭もった結果が
われわれ自己顕示欲、承認欲求をつのらせるばかり
バンドで売れたいネットで名を挙げたいインタビュー受けてチヤホヤされたい
「歌ってみた」「踊ってみた」「描いてみた」「モノマネに挑戦」
IT革命に背を押され、銭の入るあてもない素人芸がこれほど興隆をきたすのは
見物を笑わせたい泣かせたいふりむかせたい大衆感情を操作したい、と
大衆個々が考えるようになった証にみえる
*以上 悪態を並べたが
もし筆者がもう一度、生まれ変わって人生をやりなおせるとしたら
しかしやっぱりバンドを組むだろう 長文ブログを書くだろう 「自分探し」の旅に出るだろう
芸事なくして生きる理由はない 誰かに思いを届けたい 阿呆だらけの世間に我慢出来ない
賞賛されたい目立ちたい 君の心を操作したい 心の底から愛されたい
生涯会うこともないだろう人にまで自分を知ってもらいたい
200年前の社会なら俺は一種の狂人だろう
でも今こんな人 どこにでもいるよね
*「自分探し」ブームに湧いた好景気はとっくに過ぎた
今は 百万人単位のニートひきこもりが
「社会適応成功者」月給取りを妬み羨むような、自信のない時代だ
ひきこもりには用事がない そもそも気をつかう相手がいない
カンケーねぇー他人やうるせぇ上司や教師から
社会の圧力から もっとも「自由に」「解放された」層が、自分で自分を閉じ込めて
もっとも後ろめたさを感じているような時代が いつまで続くのかはわからない
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