1917年 上海美術専科学校 裸婦スケッチ授業後の記念写真 Early Chinese nudes 早期中国模特兒摄影より
生徒たちが一様にくつろいで笑顔を見せているのに対し、中心の裸婦が顔を隠しているのが肝
しかし学生全員洋装で垢抜けすぎてるような コレ、1957年とかの間違いなんじゃないの?と、学校名で検索かけたら見つけたサイト 「美術モデル講究」の中国における裸体画表現・美術モデル年表より引用
1917年の項4月 上海美術専科学校、多額の報酬を呈示して裸体モデルを募集。男子裸体モデルを使用。1920年 7月 上海美術専科学校、初めて中国人女性モデルを雇うが、4日目から姿を見せなくなる。(家族がやめさせたことが原因で、紹介者は厳しく非難され、女性モデルは中止になった。) |
魔都上海に肌を見せる娼妓は掃いて捨てるほど居たろうに、そのへんは「アートの世界」ってことか
このサイトによると、上の写真は1922年2月のものみたいです
1917年 中国・第一の裸体画事件一室を人体実習の作品に当てた。一般の参観者はその室に入ると、赤裸々な人体の絵があたり一面に懸けられているのを見て驚き怪しんだ。ある日、某女学校の校長で画家でもある人が夫人と子女を連れて見にきて、その陳列室に入ると忽ち驚愕の状態を呈し、大声で「劉海粟は芸術叛徒だ、教育界の悪人だ」と叫んで顔をおおって出ていつた。そして翌日、一篇の文章をつくって『時報』に投稿したが、題は「傷心病狂、生殖崇拝の展覧会」というもので、その内容は大衆を煽動して攻撃しようとするものであった。 |
ここで「あたり一面に懸けられていた」「赤裸々な人体」は男性の裸図
面白いのは、たとえばギリシャなりローマ帝国 数十世紀の昔から、西欧の美術には裸婦裸像がさかんに出てくるでしょ 対して東洋の裸図ったら主に春画、艶本だよね 公に出すべきものではナイ
だから、毎度おなじみわが国の「猥褻だ!」「いや芸術だ!」って論争の発祥は、西洋と東洋の美観のせめぎあい
「芸術」って概念自体がそもそも輸入品、西欧のものだから、かぶれた画家がいくら「肉体美」を説いたとしても支那や日本じゃ「色気違い!」ってことになる
黎明期の若い洋画家たちは何くそ、と啓蒙の情熱に燃えたろう 下は同時期の日本の例
羞恥心ということもあって初めてモデルになる者は着衣から始めるのが常であったが、画家や画学生の真剣な視線に羞恥心や警戒心も消え、ほとんど裸体モデルになるのに抵抗がなくなってしまった。大正期の美術モデル事情 |
するとアレだね 上の写真、上海の美学生たちは正装しているのかもしれない 選ばれし先駆者の笑顔 幾人かはひょっとしたら名を成して、美術の発展に即したのかも
もちろん顔を隠したモデルの名や、どこから来てどこへ行ったかはわからない
ところで上の写真のアップ主、Mr.Thomas H. Hahnの古写真サイトが凄い
Bibliography of China and Tibet related historical Photography - Thomas H. Hahn
中華人民共和国成立以前の支那とチベットのライブラリー こういう写真がボンボン出てくるぞ
古代ギリシャ人は、人前で全裸でいても恥ずかしくなかったのですか
愛欲のルネサンス
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